安定の島(Island of stability)

読書の記録が主。

古田織部 前編(「へうげもの」)

 

la-tour-divoire.hatenablog.com

 

 上記記事の続きの話。

 

 「へうげもの」で描かれる古田織部は最初、武人(本業)をとるか、数寄(茶など、趣味の世界)をとるか、と思い悩むシーンが多く描かれる。それが、千利休の「人とは違うことをしろ」という教えを守り、静謐な利休の茶とは異なり、激しく動的で、大胆で自由な美を形成していく。そして、千利休切腹という事件や、朝鮮へ渡航(なんと織部自ら)するなど、様々な経験を経て、自らの「美」(破調の美)を見出すのだ。

 神屋宗湛(博多商人)が日記で織部を評した言葉「へうげもの」(ひょうげもの)も、その「美」のひとつである。

 

 この漫画、絵もそうだが展開がかなりとんでもないのでそこに目を奪われてしまうが、ストーリー構成と伏線の貼り方が凄まじくうまいので、あまり気にならない。

 信長は秀吉に暗殺され(なんと秀吉自ら本能寺へ行く!)、細川藤孝(幽斎)は細川護煕そっくりだし、加藤清正具志堅用高そのもの(なんで!?)、大久保長安大橋巨泉そっくりの言葉遣いをする。小堀遠州と金森宗和はなぜか口調が女性っぽい。

 

 史実では織部大坂城の戦いで、家康を挟撃する陰謀を企んでいた罪により、息子ともども切腹する。しかし「へうげもの」では…最後まで書くとネタバレになるが、これまた最後の切れ味がすごすぎるんですよ。歴史好きでなくとも読んでほしいなあ…。

 

 

 

古田織部 前編(「割って、城を」)

 「へうげもの」を昨年Kindleで一気読みした。凄まじい作品だし、「今まで読んだ中で面白かった漫画ベスト10」をあげるとしたら、上位に食い込んでくる。

 ただ、名作故に感想が書きにくく、書こう書こうと思って半年近く先延ばしにしていた。先延ばしにしたら、頭の中で古田織部観がいろいろ変遷した。その結果分量が長くなったが、古田織部は大好きな人物なので、そのまま書いておく。

 

 

へうげもの」以前・以後で変わる古田織部

 

 いやその前に、「そもそも古田織部って誰よ」という質問に答えて、彼の略歴を書いておきたい。

 

 古田織部重然(しげなり)は戦国時代の人物で、信長、そして秀吉、家康の家臣として活躍した。武将というよりは茶人として有名で、千利休の弟子、そして利休亡き後は茶道のトップの一人とまで言われるようになる。

 しかし大坂の役で息子が徳川家に謀反を企んだと咎められ、切腹した人だ。その流派は「織部流」と言われ、彼の愛した焼き物が「織部焼」として彼の名を留めている。「織部」は彼に与えられた官位「織部正」に由来している。

 

 私は古田織部という人物を、司馬遼太郎の「割って、城を」という短編で知った。同時に、古田織部のイメージがこの短編で形成されてしまった。すなわち、ひとつの「異常者」としての古田織部である。

 

 「割って、城を」では晩年の織部が描かれているのだが、茶器を割って黄金でつないで新たな茶器を創作するという「芸術」は、織部の壊れた物への憧れから生み出した…と司馬は解釈している。「壊れたものへの憧れ」は、陰謀を生み出していく…という話。

 司馬は「破調の美」完全なもの、整ったものよりも、歪んだり崩れたりしたものを善しとする美意識)をこのように解釈したようなのだ。

 

 私が読んだ「割って、城を」が収録されていたのは確か新潮文庫から出ている短編集「人斬り以蔵」である。これを中学生の頃に読んでしまったせいで、私の中の織部観は、だいぶ変な人にねじまがってしまった。すなわち、千利休が伝統的芸術家であり、それと対比された、前衛芸術家としての古田織部である。

 

ダダイズム 既存(伝統的)芸術の批判

 

 話が脇道にそれるが、20世紀初頭、スイスで誕生した芸術運動の一つ「ダダイズム」のことを書く。ダダイズムは伝統的な芸術作品を否定するところから始まっている。

 すなわち、新聞をバラバラに切って適当に並べて詩とする、壊すための彫刻、モナリザの絵にヒゲを書いて作品とする、極め付きは便器にサインして展覧会に出品する等、今で言えばパフォーマンスアートであった。

 

 千利休という伝統的な茶を否定し、器を歪ませたり、砕いて黄金でつないだりしたのではないか、と私は勝手に思ってしまったわけである。

 今考えると、千利休の「茶道」も当時としては非常に新しい要素がたくさんあったそうで、己の不明を恥じているのであるが(今もなお)。

 

 古田織部の話続く。

 

 

へうげもの(1) (モーニングコミックス)

へうげもの(1) (モーニングコミックス)

 

 

 

人斬り以蔵 (新潮文庫)

人斬り以蔵 (新潮文庫)

 

 

 

ダダ・シュルレアリスムの時代 (ちくま学芸文庫)

ダダ・シュルレアリスムの時代 (ちくま学芸文庫)

 
ダダイズム――世界をつなぐ芸術運動 (岩波現代全書)

ダダイズム――世界をつなぐ芸術運動 (岩波現代全書)

 

 

私の電子書籍悲喜こもごも その2

la-tour-divoire.hatenablog.com

 

 ここから進展しましたか、という問い合わせが友人からあったので、その場で簡単に話したが、まとまらないのでブログに書いてみる。

 まずKindleなどで使用されているE-Inkの端末であるが、ページをめくるときに若干のタイムラグがあるようだ。KindleとBoox Note(E InkのAndroidタブレット)この界隈で有名なライターの山口真弘氏の比較動画を見てみると。

 

www.youtube.com

 

 Boox NoteはE InkなのにAndroidが入っているというなかなか面白いタブレット端末だが、めくり速度は致命的ではないかと思われる。イライラするんじゃないかなあ。

 前回までの結論では、AppleよりもAndroid、E Inkは理想的だが独自のOSは面倒だから…という感じだったと思うが、これではちょっとねえ…。

 

 では中華タブレットか…というのもちょっと問題がある。アメリカでのHuawei問題があって、中華タブレット界隈がうるさくなってきているようで、今後どうなるか?という気がする。

「1Q84」(村上春樹)

 1月中、空き時間を見つけてはずっと「1Q84」を読んでいた。2巻まで読み終わってからは上り調子で、その後は1日一冊ぐらいのペースで読み終わることが出来た。本作は村上春樹の小説にしてはわかりやすく読みやすかったし、後半まで興味を失うことなく読み進めることができた。

 

 あらすじを少し。以下、ネタバレ多少あり。

 主人公は青豆(あおまめ)という名字の女性と、天吾という名の男性の2人。青豆はスポーツジムでインストラクターをし、バーで男を漁る(この辺がいかにも村上春樹的だ)アクティブな女性。天吾は小説家を目指す予備校の講師(担当:数学)。

 ある日、天吾は懇意にしていた編集者の小松から、「ふかえり」という作者の書いた「空気さなぎ」という小説のリライトをすすめられる。一方、青豆は仕事を済ませたあとタクシーに乗るが、そこで流れているヤナーチェクの「シンフォニエッタ」に導かれ、パラレルワールドのような世界「1Q84」に迷い込んでしまう…という話。

 

 まず「わかりやすさ」について。村上春樹の小説は、「現実」に「非現実」が突然介入してくる物語という形式が多い。その手法はスリップストリームとか、マジックリアリズムとかいわれているが、1つにまとめると「幻想文学」と言い切っても良いと思う。明らかに異常な状況なのに、それが「世界の常識」であるがごとく、周囲もびっくりしないし、主人公もすんなりそれを受け入れてしまう。

 ラテンアメリカ文学によくある手法だそうだが、私はそんなにラテンアメリカ文学を読んでいないので、なんともいえない。

 

マジックリアリズムってどういうもの?小説用語を徹底解説。 | P+D MAGAZINE

 

 しかし「1Q84」では、青豆が迷い込んだ世界が「通常の1984年」とは異なるということが示され、なおかつ迷い込んだきっかけも詳細に語られる。

 このあたりが非常に分かりやすい。私は、村上春樹の長編は「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」「ダンス・ダンス・ダンス」「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」「ノルウェイの森」「ねじまき鳥クロニクル」と…って、けっこう読んだなあ。

 まあともかく、リアル路線の「ノルウェイの森」を除けば、日常に非日常が突然介入してくる、という場面がばかりだった。しかし「1Q84」では、日常から非日常に入り込むときに分かりやすい「きっかけ」があったり、「1984年から1Q84の世界に移った」ことを説明してくれるキャラクターがいたり、と、ちゃんと解説してくれるのだ。 逆に言えば、それ以前の村上春樹作品では、その前段階が除外されていたため、例えば「羊男とはなんなのか」という謎が残ったまま読み終わってしまう。主人公の心象風景なのか、実際にいるのか。

 

 また、「1Q84」では様々な団体が名を変えて登場する。農業コミューンの「タカシマ塾」はヤマギシ会(もしかしたら加江田塾も混じっているかも)だし、新興宗教団体と化した団体「さきがけ」は山梨県に本部があることからオウム真理教を連想させる。また、「さきがけ」から分派し、後に警察と衝突する団体「あかつき」の事件はあさま山荘事件。などなど、「1Q84」の世界では、現実の世界で起きている事件に関連性をもたせ、村上春樹の目線で語られる。この辺も面白かった。

 

 とはいえ、全ての謎(伏線)は回収されないまま、青豆と天吾の関係にまとめられていく。結局、1Q84の世界はなんだったのか。「リトル・ピープル」とは何か。「空気さなぎ」とは何か。などなど…

 変なシーンだけあげれば、重要なキーパーソンのはずだった「ふかえり」は後半ほとんど登場しないし、青豆は天吾の子供を身ごもったと主張する(しかし性交渉はないのである)。何かを期待させながら、しかし意味なく登場し、大仰にまくしたてる「NHKの集金人」。ハードカバーで全3巻、文庫本にして全6巻だが、このへんはうまく風呂敷をまとめられていないようだった。

 大きな風呂敷を広げてみたものの、うまくまとめるのは無理だとわかり、一番まとめやすかった「青豆と天吾」という部分だけまとめたのではないか、という気がする。

 

 音楽について。

 重要な場面でたびたび登場する、チェコ出身の作曲家・ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」をはじめ、クラシックが頻出する小説でもある。今回はヴィヴァルディ、バッハ、テレマンなど少しバロックよりか。

 「シンフォニエッタ」の場合、青豆はジョージ・セル指揮、クリーヴランド管弦楽団演奏のレコードを買い、別の場面で天吾は小澤征爾指揮、シカゴ交響楽団演奏をかけるというシーンは、「オレの好きなものに異論を挟むな」と睨んでくるようである。

シンフォニエッタ」には主題がはっきり見えずわかりにくい曲で、村上春樹が取り上げなければ日本ではそうそう好き好んで聞こうという人などいなかっただろう。

 

 

1Q84 BOOK1〈4月‐6月〉前編 (新潮文庫)

1Q84 BOOK1〈4月‐6月〉前編 (新潮文庫)

 

 

 

バルトーク : 管弦楽のための協奏曲 / ヤナーチェク : シンフォニエッタ

バルトーク : 管弦楽のための協奏曲 / ヤナーチェク : シンフォニエッタ

 

 

 

 

(映画)「ホーリー・マウンテン」


THE HOLY MOUNTAIN (1973) Trailer for Alejandro Jodorowsky's mystical hallucinatory journey

 

 アレハンドロ・ホドロフスキー監督による1973年の映画。日本では1988年に公開。

 アレハンドロ・ホドロフスキーはいわゆるカルト映画(一部に熱狂的なファンを持つ映画)を撮る人で、「ホーリー・マウンテン」は3作目に制作された映画である。

 

 ストーリーはあるようで無いようなものだが、一応。

 主人公(?)は、キリストに似た風貌の男。いろいろあって(自分のキリスト像を大量に作らされたり、その像を食べたり、娼婦に追い回されたりする)、ホドロフスキー演じる「錬金術師」に会い、8人の仲間たちとともに「ホーリー・マウンテン」へと向かうのであった…。

 

 と、ストーリーを書いたものの、結局見てもなにがなんだかわからないまま終わってしまう映画である。キリスト教錬金術、西洋から見た仏教観(東洋観といってもいい)、エログロ、狂気、そういったものをミキサーに入れて出したような。これを「カルト映画」とか「アート系」と言ってしまうのは簡単だけど(それにしても下ネタが多い)…。

 

 例えば、錬金術師に出会った主人公が引き合わされる「8人」だが、どれもこれも怪しい人物。例えば、ある「警察署長」は少年の睾丸を1,000個集めてたり、「芸術家」の作る芸術はエロ丸出し、しかも前衛芸術だったりする(前衛芸術だから悪いってわけじゃないが)。

 

 見終わったあとに「どうしよう」と思ってしまう映画である。

 

 

ホーリー・マウンテン HDリマスター版 [Blu-ray]

ホーリー・マウンテン HDリマスター版 [Blu-ray]

 

 

(映画)「アウトレイジ 最終章」(たぶんネタバレあり)

 正月早々凄まじい映画を見たのである。

www.youtube.com

 

 「アウトレイジ」「アウトレイジビヨンド」に続く、北野武監督のヤクザ抗争映画の最終作。私は北野武監督の作品は「ソナチネ」「BROTHER」「HANA-BI」と見ていて、いわゆる「キタノブルー」と言われるような流れに慣れていたから、「アウトレイジ」「アウトレイジビヨンド」での暴力描写、暴言の飛ばし合いに度肝を抜かれてしまった。

 

 このシリーズは、いくつもの組を束ねるヤクザ組織の抗争に、ビートたけし演じる主人公・大友が巻き込まれていくもの。名優たちの舌鋒鋭いやり取りや、互いの腹の探り合いも見どころだけど、やっぱり暴力描写であろう。

 それが痛い。「アウトレイジ」での歯医者のシーン、指を詰めるシーン、そして後半の殺し合いでもう切なくなってしまう。「アウトレイジビヨンド」での名台詞(?)である「野球やろうか」からの展開など、よくもまあそこまで考えたものだとびっくりしてしまった。

 ところが、である。「アウトレイジ」「アウトレイジビヨンド」でギラギラしていた主人公・大友は、この「アウトレイジ最終章」では、前作と同じ描写も多いが、どこか「老い」と「枯れ」を感じるのである。

 

 「アウトレイジビヨンド」の後、大友は韓国のフィクサーである張(チャン)会長(金田時男)に匿われ、済州島で張の組織の用心棒として暮らしていた。ところがある時、因縁のある関西のヤクザ組織・花菱会に所属する花田(ピエール瀧)がそこで問題を起こし、なおかつ張の部下を殺したことから大友らは激怒。

 花田は兄貴分の中田(塩見三省)に事件を伝え、張会長に3000万円を持って詫びを入れに行くが、張会長はこれを受け取らない。花菱会の若頭・西野(西田敏行)、花菱会の新しい会長・野村(大杉漣)らの思惑も絡んで、事件は思ってもいない方向に拡大していく…といった話。

 

 しかし、ピエール瀧はこういう怖い役がすごくうまいなー。映画「凶悪」でも元ヤクザの死刑囚を演じてましたが…

  • こじれていく関係

 

 …とまあ、ここまで書いてきたが、3部作は「だいたい同じ構造」から成り立っている。「ちょっとしたいざこざ」が、いろんな人間関係によってことが大きくなっていき、最終的に殺し合いに発展してしまうのだ。

 

 例えば、「3000万円持っていけばなんとかなる」と考えた中田と花田は、張会長らの事務所で、相手が日本語を知らないと思い込んで、眼の前で悪態をついてしまう。すると、張会長は激怒する。張の組織は張以下日本語も分かる韓国人ばかりだった…というシーン。

 余談だがこれ、「BROTHER」で山本(ビートたけし)が「fackin'japぐらいわかるよ馬鹿野郎!」と言い放つシーン(予告編でも使われたので、知っている人も多いと思うが)とそっくり。

 さて「アウトレイジビヨンド」では花菱会きっての武闘派として登場した中田であるが、本作では塩見三省の病気からの復帰もあり、かなり弱々しい。しかし、その中での演技が逆に不気味さを醸し出している気がする。中田は本作では、野村と西野の板挟みに遭う中間管理職的な描き方が多かった。

 

 余談が多くなったが、例えばこういう「ちょっとしたお互いの認識不足」から、事が大きくなっていくというのが、「アウトレイジ」シリーズでの魅力で、好きな人はこのあたりで「さあ、きたぞきたぞ」と思うことだろう。なんというか、「揉め事」を脇から見るような、野次馬根性的面白さなのかもしれないなと思ってしまった。

 

  • ヤクザだけにあることではない悲劇

 

 そして、もう一つが、「梯子を外された人たち」、言い方を変えれば「トカゲの尻尾の人」の物悲しい最期である。ヤクザの間では上からの命令は絶対だが、上の者が優柔不断だったり、別の思惑があったりすると、話が変な方向に向かってしまう。事の始末を命令された人物が逆に殺されたり、責任を取らされたり。

 でもこれは、ヤクザだけじゃないんだよなあ…と、私は「アウトレイジ」を映画館で見ていた時、ぼんやり思ってしまった。もちろん、ここまで強烈ではないが、会社組織に所属している人間は、上司の支持に従った結果失敗し、なおかつそれを守るはずの上司に知らんぷりを決め込まれ、窮地に陥ってしまった…なんていう経験は、多くの人がしているのではないか。

 

 「最終章」でのその悲劇の対象者は、花菱会の新しい会長・野村である。元の会長であった布施(神山繁)が亡くなり、後継者として指名された野村は布施の娘婿であるが、元証券マンでヤクザの経験がまったくなく、刺青もないことから西野からは呆れられている。そんな野村が百戦錬磨の西野を出し抜くべく、浅知恵を駆使して中田と西野を仲違いさせようとするが、当然2人の方が一枚も二枚も上手で、最終的には信頼していた森島(岸部一徳)からも「知らんわい。おどれなんか子分がおらんかったら、ただの定年迎えたサラリーマンやないか」と言われてしまう。

 最終的には顔だけだして生き埋めにされてしまい(しかも予告編に映ってる!)、車に轢かれてしまうという悲惨な最後を迎える。

 「理不尽なこと」は誰にも降りかかることなのだ。

 

 三作ともに鈴木慶一が音楽を担当しているが、この荒涼とした世界に無機質な音楽がぴったりと合っている。こんなことを言うのは野暮だが、久石譲ではこの味わいは出せないのではないか(久石譲なら、音楽でもっと語ろうとするだろう)。

 

アウトレイジ 最終章 [DVD]

アウトレイジ 最終章 [DVD]

 
アウトレイジ ビヨンド [DVD]

アウトレイジ ビヨンド [DVD]

 
アウトレイジ [DVD]

アウトレイジ [DVD]

 

 

誰が他人のブログを見るのか問題 その2

 自分自身の「思い」を書くのはこれで最後、と言いながら、その禁を破ってしまった…。なんかそんなことが多い一年ではあったが。

 

 さて、畏友(と、私は勝手に思っているのだが)の安田鋲太郎氏がブログで大いに頷くことを書いている。

 ブログについては、もっと敷居を下げて、気軽に更新してゆきたいなと思っています。論文じゃないですもんね。そんなわけで、こういう「他人から見たら読む価値があるかどうかちょっと微妙なテーマ」でも書いてしまいます。

visco110.hatenablog.com

 

 ハッとすると同時に、「そうはいってもなあ。そう簡単に割り切れないんだよ俺は」という感情が沸き起こる。ブログを見て欲しいと思ったことはないが、何かを書くならば読んだ人の役に立つようなことを書きたいと思ってしまうのは、私がクソ真面目だからなのかしら。

 

 シオドア・スタージョンが「どんなものも90%はクズである」と言ったように、何か価値のあるもの、というのはほとんど存在しないものだが、相対的な価値はあるかもしれない。他山の石というやつで、自分にとっては既知のものでも、他人にとっては有益な情報であるというのがままあるからである(それが公表していいものかどうか、というのもあるけれど)。いやそもそも価値があるとかないとかはなんなのか。もやもやしてきたのでこの項は終わり。

 

 とかなんとか考えていたら今年ももう終わりである。このブログを読んだ人に来年も幸多かれ。